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人物名

人物名 石川丈山 
人物名読み いしかわじょうざん 
場所 洛北一乗寺山 
生年  
没年  

本文

丈山、名は重之。後凹と改め、凹凸窩、頑仙子、大拙など、其詩、其書に記せらるゝものあり。 参河国碧海郡泉郷に生れて、若き時は嘉右衛門と称し、後、左兵衛と改む。世々、浜松麾下の士也。源義家第六子、左兵衛尉義時、石川と称せしより嗣て氏と す。浪華合戦の時、御麾下に従ひ奉り、天王寺口にありけるが、人並々の軍せんも見所あらじと、将帥の命をまたず、夜をこめて只一騎営中を忍びいでゝ敵城に 攻かゝり、桜の門といふ所にて佐々十左衛門と渡り合て、佐々が首をとる。其郎等其場をさらず切かゝりしをも、又鎗の下に伏て、大手を走り過、打取し首を実 検に備へしに、其武勇は深く感じ思召けれども、軍令に背きたる罪其まゝに見許しがたく、殊にかねて寵臣のことなれば、依怙の御沙汰も穏ならずと訳、惜ませ 給ひながら勘当し給ふ。さてぞ武門を離れて日枝の山のふもと一乗寺むらによを避、詩仙堂を創し、自ら六々山人と号し、山水花月に情を慰む。詩仙堂とは、唐 宋諸名家三十六人の詩を一首づゝ自書し、像は探幽法印に画せしめて梁上に掲たれば也。本朝の歌仙に准らふるなるべし。こゝに隠れて後は京へ出ることをせ ず。後水尾帝其風流を聞し召てめされしかど、固く辞奉りて、

わたらじなせみの小川の浅くとも老の波たつかげははづかし

と申上ければ、燐み思し召、心にまかせよと勅ありしが、殊に此歌の波たつを、波そふ。と雌黄を下し給ひしも忝し。初、惺窩先生に道を 学び、羅山子、杏庵、玄同の輩と交り、詩をよくす。平生咏ずる所の詩若干首集めて覆醤集と号く。又北山紀聞あり。是も翁の詩、又詩話を記す。ことに隷書に たくみなり。世人称して本邦中古以来隷書のはじめとす。寛文十二年壬子夏五月廿三日、享年九十歳にして歿す。翁為リ人ト剛直にして勇あり。其頴敏なるも亦 人に過絶す。二歳の時のことをよくおぼえ、四歳にして成人のごとく歩行す。十六にして仕へ、三十にして退き、老母につかへて孝を尽し、四十にして隠遁の志 を堅せり。実に希代の隠士といふべし。棲遅のあと禅尼寺となりて存在す。風景凡て雅趣あり。外面に小有洞、中門梅関、嘯月等の額、皆、翁の手書也。其ノ所 ノ蔵ス翁の肖像、探幽図して自賛を記せらるゝ幅、閣上より望む所十二景の巻、此閣三重に作れり。 又木崑崙、竹如意の類、生涯愛翫の六物有て請人には是をしめし、且近来其図を摸刻し冊となして広れば、こゝには疣せず。其中に七絃の琴は明陳眉公の旧物に して、ことにめづらしといひもてはやすを、霊元法皇聞召及ばれて、宮中にめして叡覧ましましけるが、古きいと三筋のみ残ければ、徳大寺家の世臣物加波氏の 妻女に勅して、糸四筋を補ひて下し賜けるとぞ。物加波氏は世々琴絃を作る来由ありて勅許を蒙り居れる故となん。今右に琴の図様を掲ぐ。
図版