介亭伊藤氏、諱長衡、字正蔵、即通名とす。是堀川の家風。
仁斎先生の第三子也。生質篤実に過て魯に似たり。殊に孝友ある人なり。母氏雷を懼る人こと人に過グ。故に生徒集て講談の半といへども、空曇れば直に辞して、其本家堀川に走ること夏日の常なり。其他も推て知るべし。兄東涯に仕るもまた猶父のごとし。父には幼て別れしゆゑ、此兄弟皆東涯先生のをしへをうく。
弟たちは尚少年にして、時々青楼に遊ぶ。或は朝に及て帰るに、介亭同居の口なれば、早晨に起てあらるゝに苦しみ、或時門より入て急に呼ていはく、いづこにか火事ありと。先生即走て屋上に登り、是を望む間に、部屋に入て紛らはしたり。後は是をよきことにして、朝かへるごとにかくよばゝるに、あやしぶけしきもなく、例のごとく屋上にのぼる。奥田士亨東涯の門人にして三角と号す。通名惣次郎。伊勢の人。
いさめていふ、是は令弟達のあざむかるゝなり、何ぞつねにはかられ給ふやと。先生いふ、吾これをしれりといへども、もしまことの失火ある時、例の偽りぞとこゝろえてたゆみてはあしとおもひて、かくするなりと。またあるとき、住る家の板敷を引はなちて、何やらん人を指揮す。ある書生入来て、何ごとぞといふに、今誤て鉄の火筋を落せり、故に是をもとむるなりと。書生、それは何ばかりのものにもあらず、さながら捨玉ふがよし、さわがし、といへば、否、此ものををしむにはあらず、此家は人のものなれば、我にかはりて住人あらんに、板敷を踏おとし、此火筋にて傷んことをおそるゝ故に、かくするなり、とこたふ。後、子を養ひて嗣とするに、既に長じたれども、小児のおもひをなし、堀川の岸を過るときは、後より手をあつるごとくして是を護る。人みてあやしぶばかりなりしとなん。またをかしきことは、年比召使れし一奴、甚愚直なるものあり。ある日鰒を切しむるに、是は庖丁をねさせて切べし、と教たるまゝに、其日は事に紛れて、明の日、いかにきのふの鰒は切たるやととはる。奴、いまだ寐させたるまゝにておこし侍はず、といふがあやしさにみれば、割木を枕とし、布巾を打きせ置たり。又鯛の頭の切だるを炙しむるとて、頭は角に掛べし、とありしに、やがて縄にてつなぎ、屋の角に掛たりし。先生、奴はかくのごとくなるがよしとて、それが生涯愛してつかはれしとなん。高槻の儒臣たりしかども、京師に住て終る。嵯峨二尊院先塋の側に葬れり。
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