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人物名 |
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本文 |
佐川田昌俊、喜六と称ず。姓は高階。世系、高市王子六世峯緒より出。承和の比高階を省畧して高と称ふ。先人某、下野足利の荘、早河田村に食し、つひに文字を佐川田にかへて氏とす。貞治四年、義詮将軍、高掃部助師義をして信濃の賊をうたしむる時、援兵となり、足利某氏、鎌倉に居て東国の鎮たる時、手書を賜ふて累世鎌倉に仕ふ。その後、六七世を経て喜六にいたる。喜六幼くして越前長尾家の将、木戸玄斎が養子となる。いまだ弱冠ならざる頃より、三郡の訟をきゝて判ずるに、議辧よく当れば人賢者なりとあふぐ。玄斎和歌を好む故したがひて学べり。後玄斎むなしくなりて其家絶たる後、洛に赴き、慶長五年庚子大津の駅の戦に、ある人の手に属し先登し、鎗を壁上にあはせ左の股を傷られてなほ周旋す。永井右近大夫直勝朝臣、喜六が勇名をきゝて、招てしばしば眷遇し給ふ。慶長十九年、難波の役、侯の営に九鬼某の兵すすむ時、其間いかばかりかある、又沼川の浅深いかならん、と仰ければ、喜六すゝみ出て、おのれ往て、ものみつかふまつらんといふ。侯とゞめ給へどもきかず、蘆原、沼川をわたりて九鬼の兵と言を交へ、其浅深などくはしくはかりてかへり、敵兵必いたることをえじ、とまうすに、果して明日引退く。水陸の算、喜六がことばのごとくなるを人皆奇とす。すべて弓矢の道にくはしく、孫呉の書を明らめ、経済のことをもよくしれり。右近大夫嗣、信濃守尚政朝臣、ますます喜六に礼を厚くしたまふ故に、諸士もまた重ず。寛永十年、侯増封を得給ひ、下野より山城の淀にうつらる。一時在府の日、封地不熟にして諸士飢寒す。その比喜六執事たれば、皆、軍用の金をからんと乞ふに、喜六思惟して、是は君にまうし同僚にかたらひては成べからず。吾一人の意にてはからはんと。倉をひらき銀子千貫目を出し、返済のことを示して分配す。後侯是を聞し召て大怒、私のはからひを責む。喜六申す、軍用金もと何の為ぞ、諸士乏しく公の恩を思はざる時は有ても益なし、今十年を経ば、各返納して倉廩もとのごとくならん、されども此挙臣一人の所為なれば、もし義にあたらずと思さば、死を賜はんもまた辞せざる所也と。其理当れるをもて侯も言なくやみ給ふ。同十五年、疾に嬰て致仕し、家は息俊甫に委ね、薪村酬恩庵、一休禅師の遺跡 の境内に黙々庵をむすびて幽居す。禅に参じ、山水を翫び、意を方外に遊ばしむ。壷斎また不二山人ともいふ。茶伎は小堀宗甫翁を友とし、連歌は昌琢法眼に従ひ、書は松花堂に学ぶ。漢学はもとより羅山子にきけりし。和歌をも好みて近衛藤公に参り、中院通勝卿、木下長嘯子にも鷗社をなす。ある時、淀川の鯉を近衛殿に奉りて、 ついであらばまうさせ給へ二つもじ牛の角もじ奉るなり閑田云、鯉の字、古仮名はこひなれども、後世はこいとかけり。
御かへし、 魚の名のそれにはあらでこのごろにちと二つもじ牛の角もじ来いとの給ふなり。 又所持の博山の香炉を羅山子に贈る時、子答て、遠ク寄セテ一炉ヲ示ス相恋ヲ。心ハ如シ螺甲沈水錬ノ。(遠ク一炉ヲ寄セテ相恋ヲ示ス、心ハ螺甲沈水ノ錬ノ如シ。)とよろこべり。此たぐひ風流の交の書牘世に残れるもの多し。挙にいとまあらず。昌俊若きときよめるうたに、よしの山花まつころの朝な朝な心にかゝるみねのしら曇 これを飛鳥井雅康卿の伝奏にて後陽成院の叡覧に人ければ、ふかくめでさせおはしましけるが、後寛文の皇后、集外歌仙を撰ばせ給ふ中にいりて、忝く宸翰を染給ふとなん。連歌においてことに長じけることは、ある人、昌琢に向ひて、当時連歌に冠たる人は誰ぞととふ。昌琢、西におのれあり、東に昌俊ありと是は永井侯いまだ下野に在城の日也。 答られしにてしらる。寛永二十年癸未八月三日病て終る。享年六十五なり。墓は酬恩庵境内にあり。 <後に正せれば、是什麽と小石に誌し、其後に、大石に道春の碑銘を彫るとぞ。> 蒿蹊云、墓碣に、何でもないことこと、とのみ記すとぞ。予先年此寺にりしかども、故障ありて此墓および其茶室を見残せり。今は人の話をもて録す。 |