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人物名 |
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本文 |
釈日政、字は元政、妙子と号す。不可思議、又、泰空とも称す。姓は菅原、平安の人なり。母、石井氏、或夜の夢に、高僧入来りて、たのも しきかな、といふとおぼえて後孕ることあり。元和九年己亥二月廿三日、京師一条のほとりに生る。母氏曾てなやむことなし。二歳の時、秋七月十六日夜、父携 へて東山の送り火を見せしに、大の字をみて家にかへりてたゞちに其字をしるす。またさまざまの玩物をならべ置、人其名をよぶ時、喚にしたがひてとることか つてたがはず。六歳にしてはじめて書を読しむるに、一たびさづかりしことはわするゝことなし。ある日父にしたがひて建仁寺大統院にあそび、院主、九巌長老 にまみゆ。長老いふ、児、何の書をならふや。いふ、大学を学ぶと。即長老二行を口授するにたゞちに暗記して誦す。長老掌を打て嘆じていはく、誰かしらん今 寧馨児ありと。八歳にして近江彦根にいたり、武事をならふに又よくす。十三歳、城主井伊直孝君に仕ふ。故ありて母の氏をとなへて石井俊平といふ。常に官の いとま書籍をよむに、精力人に過絶す。一時江戸にくだらんとするに、かねてより母氏のもたる観音の小像を携と乞ふ。此像は母氏、石山にまうづる道にて拾ひ しところにて、深くひめ置たれば、年比得まほしきながらいはで過せし也。しかるに乞ふにおよびて驚ていはく、よべの夢に尊像つげて、俊とゆかん、俊とゆか ん、との給ひしにあへりとて、すなはちあたふ。さて、江戸にありて疾し、京にかへりて養ふこと一年、時に歳十九也。性、山水を楽しみ、風景にあふては終日 吟咏す。母氏と和泉和気に遊んで、日蓮上人の像を拝し、三願を起していふ。一つには出家得度せん、二つには父母の命ながくて孝養をつくさん、三つには天台 の三大部を閲せんと。時に泉涌寺の雲竜院周律師、法華経を講ずるをきゝ、忉利に生ずるの文にあたりて、律師、法蔵比丘の母をすくふ因縁を引をきゝ、涕泣し てやまず。四座も亦これがために袖をうるほす。師、律師の徳義をしたひ、出家の志をつぐ。律師いふ。汝はなはだ少し、出家いまだ遅からずと。さて、後八と せを経て廿六歳、妙顕寺日豊上人にしたがひて志を遂げ、果して三大部を閲す、もし解せざることあれば僧俗長幼をえらばず是をとふて尽す。夢に天台大師と議 論あまたゝびにして解すること多しとなん。しかも慎みて人にかたらず。常に三学を修して滞らず離ず。又およそ耳目の触るゝ所ながくわすれず。かゝれば、内 外の二典にわたり、かねてよく日本紀に通ず。後深草に隠遁の地を占て瑞光寺と名く。常に袈裟を脱せず、持律誦経怠ル時なし。其風をきくもの草のふすがごと く是をつぎてあふぐ。又来りて道をとふものあればよくをしへてさとす。貴介公子といへども招くには応ぜず。或ルは人、絹衣を供すれば棉にかへて徒衆に施 す。後父母の舎を寺の傍にまうけて称心庵と名づけ、孝養おこたることなし。父行年八十七にして終る。母とし七十九に及びて、身延山に詣むことを告られしか ば、師たすけてともにまうづ。此時、身延紀行あり。後母もまた八十七歳にて終らる。其二七日より師にはかに病にふし、つひに起ざるを覚給へば、諸徒弟に遺 戒し、自ラ曼荼羅を書し、弟子恵明に附属して法嗣とす。明ル年遷化の前一日、父母の墓に大に法華の首題を書し給ふ。世寿は四十六、寛文八戊申の年二月十八 日化す。辞世の歌有、 鷲の山常にすむてふ峰の月かりにあらはれかりにかくれて 遺骸を称心庵の側にはふむり、竹両三竿を植ふるのみにして塔をたてず。遺命によるとぞ。著す所、草山集三十巻、草山和歌集一巻、釈氏廿四孝一巻、竜華歴代 師承伝一巻、同抄一巻、本朝法華伝三巻、小止観抄三巻、草山要路一巻、身延紀行一巻、称心病課一巻、元々唱和集二巻、扶桑隠逸伝三巻、聖凡唱和一巻、如来 秘蔵録一巻、食医要編一巻、猶考訂のもの甚多しとぞ。巳上、草山集に真名にて出たるを花顚訳し、蒿蹊又たゞしてしるす。 ○又花顚ある人のもとにて、上人自筆にかたかんなして書給ふ日記のはしをみる。其語平生を見るにたればこゝにあぐ。十三日、書ス和歌懐紙ヲ。 草紙をこしらへるとて紙を折ル。一僧前にあり。其僧是へ給り侯へ、折申候はんといふ。予が曰、是も修行なり。心か らひづまぬやうにすればろくになるのみにあらず、心もたゞしくなるなり。手をもつてすることは是にかぎらず、何事もうるはしからぬものなり。 戸のあけたても鳴らぬやうに心をつけ、はきものぬぐもゆがまぬやうにするは、見聞のよからんためにあらず、心をおさめんため也。見聞 のためにするは、甚しき時はまことの業にもなるべきなり。心のためにするは、只是仏道の因也。日夜になす所、善事といへどもさながら悪業ともなり、さらぬ ことも又功徳善業ともなる也。心をつくべきこと也。凡何事も修行にならぬことはなし。物を二つにするは皆根本にもとづかぬゆゑなり。 十六日、訓点ス戒牒及光照寺ノ化疏各一巻ヲ。 十七日、午後、読ム源氏須磨巻十三張半ヲ。 僧曰、戒律を持するは養生にもなるべきと存ず。予曰、何ぞたゞ戒のみならん。八万の法蔵、皆、是良薬也。身心のた めに病をなほすより外のことなし。 詩歌の道をよくすれば、即是定恵の二法を修する也。二法具すること詩歌一致也。おのれが芸にほこり、人の耳目をよ ろこばしめんとするは詩歌の邪路也。西行上人、明恵上人にかたりしは、我歌をよむは遥に尋常に異也、花、子規、月、雪すべて万物の興に向ても、凡所有皆虚 妄なること眼にさへぎり耳に満り。又よみ出す所の言句、皆真言にあらずや。花をよめども実と思ふことなく、月を詠ずるも実に月と思はず、只如ク此ノして随 ヒ縁ニ随ヒテ興ニよみ置所也。紅虹たなびけば虚空色どれるに似たり、白日かゝやけば虚空明なるに似たり。然れども虚空もと明らかなるものにもあらず、又色 どれるものにもあらず、我また此虚空のごとくなる心の上において種々の風情を色どるといへども、更に蹤跡なし。此歌即是如来ノ形躰也。されば一首よみ出て は一躰の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひよりては秘密の真言を唱ふるに同じ。我此歌によりて法を得ること有リ、もしこゝに至らずしてみだりに人此道を学 ばゞ、邪路に入べし、といふ。 山深くさこそ心はかよふともすまであはれはしらんものかは これも西行上人の其時のうた也。明恵伝記に見ゆ。十八日、天大晴。嘗粥即チ出ヅ高槻ニ。肩輿中念誦已ニ畢ヲ而ヘテ看ル須磨一帖ヲ。 書坊白水来リ。出ス叡山戒檀院ノ戒牒一巻。世尊寺行忠ノ筆ヲ。予閲一遍。又、示ス為家卿ノ書古今ノ作者ノ伝一帖 ヲ。古今集ノ歌人之履歴尤詳也。予乃チ覧了ヘテ還ス之ヲ。 廿日、読ム刪定止観、及源氏物語ヲ。 廿一日、午後、省シ養寿院ヲ。見ル源氏物語十五六張ヲ。下略 蒿蹊云、上人の詩歌其集あればこゝに贅すべからず。しかれども秀逸と聞ふる歌、又その志を見るべきもの少し挙ぐ。 深くさのさとに住なれて後、 すまでやはかすみも霧もをりをりのあはれこめたる深草のさと
山家橋、 くちはてねなほをりをりはとふ人の心にかゝる谷の柴はし
宇治川の水上にのぼりて、人もかよはずしづかなる所にひさしくながめて、柴ぶねの往かふをみるに、薫大将の誰もおもへばなどいひしも、 おもかげにうかびて、 世の中は誰もおもへば水の上にうきてたゞよふうぢの柴船
同じく平等院にて、 はかなくてけふもくれけりあすしらぬみむろの山の入相のかね
しぼちの東へゆくをはなむけすとて人の歌よみけるをみて、 むさしのゝ雪も氷もふみ分てはてなきのりの道をきはめよ 大かたのよにゝごるとも住なれし我山水のこゝろわするな
折句のうたに、ふゆのはな、 ふみわけし雪のみやまののりの道はるけき跡に猶まよふかな
帰鴈、 まよひ出し人の心をふるさとにいざさはさそへかへるかりがね
はるのうたの中に、 さきてちるものもおもはじ山桜いろかの外に花をながめば
妙の一字をかきて歌よみてと人のいひしに、 心にもおよばぬものはなにかあると心にとへばこゝろなりけり 凡調にあらざる歌あまたなれども、こゝにとゞむ。○又花顚、彼法嗣恵明師の手書にて随筆を見しうちにありし一条、おもしろき事なればとて挙ぐ。 ○熊沢次郎八は陽明の学にして備前岡山侯に教し人なり。後俸録をすてゝ洛陽上御霊の辺にかくれて名を蕃山了芥と改む。甚楽を好めり。伶 人を日々招きあつめて楽を稽古しけり。ある時伶人某といふもの、了芥をして草山に来り謁せしむ。爾来節々草山に来れり。又伶人を携来て楽を聞。余も草山に 従ふ。又師に請ふて折々法華経の訓読を習ふ。梵語の心得がたき所などを聞ク。譬喩品に至てやみぬ。又源氏物語をも師にきけり。これは全篇きけるが、師の前 にしてはあながち仏法を破することなし。但当世の僧の行ひなどのあやしきことをなげく。釈尊に当世の僧を見せたらば、此人は何といふものぞと仰てん、孔子 に当世の儒者を見せたらば、これ何ものぞと仰てん、などかたりけり。寛文二年霜月七日の日、了芥、又伶人三四人、并に小倉少将といふを伴ひて草山の称心庵 にして楽をなす。了芥は琵琶を弾じ、少将は琴をひく、師は和歌をよむ。 あめつちの心にかなふしらべには山の岩木もうごくばかりぞ 後了芥、吉野山に庵を結びて隠れたりける比、消息したりし、此はるはよしのゝ山のやま人となりてこそしれ花の色かを ○蒿蹊因にいふ。陳元贇は明末の乱を避て帰化す。朱舜水と同時とぞ。初尾張にありて元政師に相見の趣、其身延紀行にみゆ。後京師に住て常に師と交を結 ばれしよし。其贈答の詩文を集たる書、元々倡和集也。おのれも元政師に贈られし尺牘を買得たるを左に録す。 久シク違フ慈範ニ。毎ニ切ナレドモ神馳ニ未ダ省ミ。邇日、法体若何。老邁自リ遷居後。目涙。腰疼。足痺。駢集而来リ。苦楚万状。寸歩モ如シ登ル九折ヲ。縁 リテ是ニ不能ハ趨候シテ宝山ニ以聆クコトヲ清誨。疎譴豈容筆舌ヲ。想フニ高明当ベキ鑒ガム愚之衰憊ヲ耳。前ニ承借五雅九冊謹遣ミテ奚奴ヲ奉璧。希クバ検収 幸甚。余惟レ隆冬。保嗇是■耑。此不宣。特筆ス。宝山多シ竹。小ナル者乞フ賜ヘ一竿ヲ。以テ備ヘン衣桁之用ニ。勿レ吝是懇。 陽月晦 俗子陳元贇 花押 草山元政師最愛下 (久シク慈範ニ違フ。毎ニ神馳ニ切ナレドモ未ダ省ミズ。邇日、法体イカン。老邁遷居自リ後、目涙、腰疼、足痺、駢集テ来リ、苦楚万状、寸歩モ九折ヲ登ル如 シ。是ニ縁リテ宝山ニ趨候シテ以テ清誨ヲ聆クコト能ハズ。疎譴豈筆舌ヲ容レンヤ。想フニ高明愚ノ衰憊ヲ鑒ガムベキノミ。前ニ承借五雅九冊謹ミテ奚奴ヲ遣シ テ奉壁ス。希クバ検収セバ幸甚。余惟レ隆冬、保嗇是レ■耑。此不宣、特筆ス。宝山竹多シ。小ナル者乞フ一竿ヲ賜ヘ。以テ衣桁ノ用ニ備ヘ ン。吝ムコト勿レ。是懇フ。 陽月晦 俗子陳元贇 花押 草山元政師最愛下)(追記) 此人学才あるのみならず、柔術に妙にして、今も本邦に行はるゝは此下流多しとぞ。文武の君子にして北狄に従んことをにくみて皇国に来 る。其為リ人トしるべし。此人取持の観音の像及持物、北野東向の観音寺にあり。しかれば京にて終られし成べし。 丈山老人もまた師と友としよし。詩仙堂へ茶を乞れし書簡をある人もてりし。 深草真宗院は、浄土深草流義の本寺也。師、其中興慈空上人とつねに伴ひて遊行せられし。隣寺といひ、同じく律を持て斎食なれば、かたみ に煩らひなしとよろこび給ひしとなん。自他宗の嫌忌なきを学ぶべし。 |