大和の国十市郡八条村、荘屋山口与十郎といへるもの、宝暦の比、凶作により同郡八ヶ村の長とともに訴出ることありて、其趣、私あるに罪せられ、皆々伊豆の新島といへる所に流さる。其子庄右衛門、七旬に余る祖母を養ひて過すが、もとより家財田地等も没入せられければ、但力作をもてからき世を凌ぎ渡る中にも、父の意を慰めんとてひらき文を贈る。凡ソ流人に文通するには、封を附ずして往復するを、ひらき文といふとぞ。
さて年をへて祖母身まかりしかば、今は島の父の許へ行て仕へんと志、領主へ願けれども、たやすきことにもあらず。力なく過しけるあひだ、大赦の御事あり。此事を聞とひとしく弟の清右衛門といふものをあづまに下して、願奉りけれども何の御いらへもなく、其としもくれて、明る年遠江の某といふもの、西国順礼して尋来り、おのれも新島の流人なりしが、去年大赦にあひて帰りぬ。彼島にて与十郎殿には隔なく交りし、与十郎殿は隣村の三郎助なるものと酒を商れしが、其三郎助盗人にあひ横死せし後、与十郎殿も眼病にて盲と成給へりなど語りしかば、庄右衛門いよいよ心ならず。高野に伯父の僧ありしもとへ行、しのびて彼島に渡らんやと思ふよしを告しかば、其僧げに孝の心は浅からねども、後もし御赦しあらん時の障となるべし。たゞ命をかけて願まうさばよも御免しなき事はあらじと諌ければ、庄右衛門聞うけて、夫より又領主へ願を奉りけるに、孝養の意を感じ給ひ、官聴に達し給ひしかば、明る春免許を蒙り、新島に渡りぬ。妻も其親にあづけ、衣服調度を代なして路費に充。かくて領主の邸に出し時、まづ其たくはふる所を尋給ひしかば、有の儘にこたへまうすに、かばかりにては心もとなし。糧尽ばいかに、と重て問せ給ふ。それは物種をたくはへ侍ば、土さへある所ならば二人が食物心やすく作出してんとまうす。さて是を聞つけ給ふ諸侯、又富豪の家々より奇特の孝子也とて、餞別を若干えたり。梶取、水主も官より給り、伴船二艘に引せ、新嶋に着てみれば、讒に九尺四方斗の柴の庵に、与十郎は実も盲人になりてさしうつむきて有リ。庄右衛門下り来りしよしをいへども、初はまことゝせず。委しくものがたるにおよびて、且おどろき、且よろこび、夢ならばさめずあれなどまどひしこそことわりなれ。庄右衛門も悲み喜こもごもにてむせびける。其あたりにふくといへる老婆、与十郎が盲になりしよりは、万扶持し、朝ゆふ心をつけていたはりしかば、此庄右衛門が下りしを聞キ、ともによろこぶこと大かたならず。かゝる海島にはめづらしき人がらなりき。さて、介抱の余暇にはもち来りし物種を蒔むとみめぐりしに、野よりは菜を生ぜず、山よりは蔬を出さず、わづかに野老をほり、葛をもとめて喰ふのみ。冬は魚もともしくて、芋にて命を支ふ。唯綿、たばこの類を植、米に代なして老を慰む。後には山のかなたにたまたま沃土を見出して、麦、米なども作りしとぞ。嶋人もかく庄右衛門が父に仕ふるを見て、父子孝慈の道をしりけるとかや。孝子ともしからず、天其類をたまふとは是をやいふらん。或ル時彼福女、老父が外に出たる間、庄右衛門にむかひて、妻や子はおはしますや、ととふに、しかじかのよしを語りければ、なさけなき人哉、此四五年がほど仮初にもいひ出し給はぬことよ、といふ、その事也。もし父此ことを聞給はゞせんなきことに心ぐるしう思召さんとかくしつる也、といへり。此一つにても常の心もちゐしらる。さて、流罪御免のこと再応願出しければ、島ノ長も其孝心を感じ、官の御聞に及びて赦にあへり。江戸にいたりし時、是を賞嘆して、金銀を贈る人もあり。通行の路上これをみる人も如堵なりしとぞ。
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