若狭大飯郡小堀村に与左衛門といへる農父あり。わかき時より慈悲深く、人もたゞならずおもひけるに、ある夕暮、二人連レの女道者門にたち、われらは西国巡礼にてさふらふが、行くれて道も辧へがたし。御情に一夜明カさせ給へといふ。与左衛門憐み心よくもてなしけるに、一人の女、懐より男児を出して、便なきまうしごとにさぶらへども、旅はものうきならひなるに、女の足のはかばかしからず。此小児にわびて折々は捨もやせんとおもへど、犬狼の懼あればそれもえせず。あはれ此子を養ひ給らば、心よく巡礼仕候はんといふ。与左衛門これをきゝて、妻にはかりていふ、我年比子といふものなし、此子を養はゞまことの子をえたるも同じことにあらずや、いかにと。妻も心うつくしき人にや、げにさることに侍るとて、速カにうけひきければ、巡礼は涙を流し拝みよろこびて朝とくたち出ぬ。さて、夫婦其子を宗四郎と名づけ、天よりあたへ給ふ所なりとて、大切に養育せしが、此後八年をへて実子をまうけ、名を磯八とつけたるが、兄弟むつまじくやうやう長じてともに稼稷をつとめ、父母に仕ふること孝順也。後磯八はある人に奉公してありしが、宗四郎きかず、おのれはもと巡礼の子にして所生もしられぬものなり、磯八は肉を分られしものなれば、彼に譲り給へといふ。父此よしを弟にかたれば、いな、もとはしらず、吾生れぬさきよりの兄也、家を継たまふこそ順なれといふ。宗四郎かたくうけがはず。おのれ此家にあらばいつまでも此論絶じ、されども跡をかくさば父母の哺養なしがたからん、いかにせましと思惟して、つひに隣村の豪農をたのみて奉公し、給米をことごとく父母におくりて、家には帰らず。しかる間、与左衛門老病にてむなしくなりしかども、家をつぐものなく、村長もてあつかひて、兄弟相譲る旨を官に訴へければ、国君感賞し給ひ、宗四郎には米若干を賜ひて家を継しめ、剰税租を免し給ひ、弟磯八には別に月捧を賜、帯刀をゆるして褒美し給ふとぞ。
蒿蹊按、大さゝきの帝の御譲はおほけなけれど、猶新井白石の読史余論に疑へる論もあり。此賤者の譲は議すべきよしなし、たとむべき哉。
思孝曰、大古大鷦鴒帝、莵道皇子と、御互に天位を譲給ひ、みとせが間ダ空位なりしこと世のしる所也。夫は上ミが上ミ、是は下モが下モにして趣同じ、尊むべき操ならずや。
蒿蹊云、上京に名ある豪富の者、父弟を愛して家を譲らんの趣なりしを、兄訟へて利運になりしが、又弟とも争論に及びたり。兄弟ともに奢侈の外をしらむ無頼にて、弟は早く身まかり、兄は年を追て貧乏なり、色々のよからぬ催事などして過し、其死する時は陋屋に借り住し、身を蔵す斗の葬儀だに出来かねたりし。天鑒あやまたず、善悪の報如斯。豈慎ざるべけんや。
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