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人物名 |
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本文 |
備中国鴨方村に、高戸善七郎、後に孫兵衛といへるは、父に仕ふること極て孝也。其父、曾右衛門四年にあまりて病に伏居けるに、昼夜側を離れず。弟源次郎もまた孝順にて兄と等しく懇に心を尽しける。少しく快キ日はちかきあたりに休息所をかまへ置たるへ伴ひ行、割子やうの物開き、そのわたりの人をあつめて、酒をすゝめ心を慰ましむ。善七郎は公務の外他行せず、介抱にのみ心を尽し、行状正しくすべて人の及ばざること多しとなり。旱損、水損ありといへども、毛見をも願はず。田地破損し、或は砂入せる時も、自費を出して修理し、官辺のために煩しきことを願出ず。金銀を人に貸与ふる時も、貧者には利息を軽し、他の物を借れるよりも益あるやうに実義を以て斗り、己が利をさらにいはず。窮せるものに合力をなすこと多く、此陰によりて貧家も富におもむける物多し。乞食など我門に立より乞ふ時は、分に過て施すと也。領主の聞に達し、寛延三年二月饌を賜り、二方金を与て賞美し給へりと、備前孝子伝に見えたり。これは備中の国なれども備中の支封池田信濃守殿の領地とぞ。 此人頗文字もあり。老後人の飼たる山雀の翅を殺たるを燐み、乞得て愛養し、翅長ずるに及び、籠を開きて去しめんとするにさらず。程なく翁京へのぼらんとて、家より一里斗出たる竹輿のうちにて頓死しければ、家にかへしてとかく事をはかる間、彼山雀を其家の東一丁斗ある親族のもとへうつしたるに、翁の死をや知けん、寵を破りて飛去ぬ。さて、葬義など終りて後、妻子翁の墓にまうでゝみれば、彼鳥そこにあり。此墓所は翁の家より西にて、うつしたる家よりは五丁斗もあらんに、いかにしりて来りしにかと人々あやしみて、例のごとく手を動して試れば、手につきて舞鳴ぬ。いと悲しうてつれかへらんとしたれば、やがて又空に飛さりぬとぞ。此一条は其邑の儒生、西山拙斎老人の話にて、即山雀歌の作有。詩長篇歌体也。 蒿蹊にも国風を請れしかば、 鳥にしも及びにけるかかぞいろに直く仕へし人の誠は うつくしむ心をしりて山雀のやまずもぬしをしたひけらしも などよみておくりぬ。 |