[ 日文研トップ ] [ 日文研データベースの案内 ] [ データベースメニュー ] |
人物名 |
|
||||||||||
本文 |
本阿弥光悦、太虚庵、又、自徳斎、徳友斎とも号す。本佐々木の家族、多賀豊後守高定の孫、片岡治大夫宗春の三男にして、本阿弥光心が養子となる。本阿弥は刀劒ノ鑒定、磨礪、浄拭等を家業とし、これを本阿弥の三事といふ。しかるに光悦この三事に長じ、殊にそのかたしとする所の浄拭に委し。是につきて自の戯歌、 一ふりはらいのたぐひと思ひしがいま一ふりはめきゝものなり 人の刀を相せし時白雨しける故とぞ。尤モ書に妙也。ある時、近衛三藐院殿光悦にたづね給ふ、今天下に能書といふは誰とかするぞと。光悦、先ヅ、さて次は君、次は八幡の坊也、松花堂をさす。 と。藤公、その先ヅとは誰ぞ、と仰給ふに、恐ながら私なり、と申す。此時この三筆天下に名あり。或は粟田宮尊純法親王を算へ奉りて四筆ともいふ。藤公以下三人も、或は法親王の御弟子といふ説も有、実否をしらず。また或ル時、藤公にはかに光悦をめしければ、何事ぞとあはてゝ参るを、即おまへにめして、悦が手をきととらせ給ひ、汝は汝はと、言もあらゝかに仰給ふに、悦思ひよらざることなれば、御意にたがひし覚は侍らずと、恐れ恐れ申ければ、公打わらはせ給ひ、何としてかくはよく書ぞ、と戯れ給ふこともあり。又松華堂とともに藤公へまゐり、夜のふくるまで御物語申せし時、今古の書家を品評し給ひ、孫過庭、虞世南等ともに王右軍を学といへども、其風なし。今ノ人はその風を学んでその心をまなばず。その姿を真似るを書奴といふ。書奴の名を得んよりは、おのおの我好にまかせて一家を成べしや、と宣ふ。二子、僕等も常に思ひ侍らふ所也とて、あすともに書をなしておまへにして戦はしめん、とて帰りぬ。約のごとく明日二子まゐり、公の御書とならべて、おのおの一風を書出せしをくらべける。今も、近衛流、光悦流、滝本流とて世にもてはやさる。又茶を好みて、初メ宗旦と善し。後其子宗拙父に勘当せられし時、もとより光悦が書の弟子なれば、ひそかに野間玄沢鷹峰の隠者 にあづけたるを、旦聞出て深くうらみ、交リをたちしはいかなる故なりけん。また、陶器を好みて焼キぬるを、今も世につたへて珍重す。凡ソ藝のみにあらず、経済の才もありて鷹峰の辺に金掘べき山を考へ、五ヶ所を得て、人民多その益を蒙る。もとよりこゝろばせ正しき人にてありし。その一事は、七月十四日にある町家へ行たるに、常に同じく家職をいとなみてありしかば、悦あやしみて、けふは貴賎となく金銭の出納に閙しき日也、などかくつねにかはらぬぞ、といふに、あるじ町家には利用を計るをむねとしさふらふ、けふ与ふべきものを五日過て与ふれば、何斗の利を得ることにさふらふゆゑに、けふは心いそぎも侍らず、といひしに、悦こたへもせず、家の内のものどもの面をひとりひとりにらまへて、よき畜生めら、といひすてゝ出、それよりはふたゝび来らざりしと也。寛永年間、洛北鷹峰を悦に賜りしより、こゝをひらきて人家を設たるに、若狭、丹波の通路なる故に、往来しげくなり、此辺に山賊などいふもの絶たり。是より先はかうやうの悪党かくれ住て、人を犯す事多かりしとぞ。寛永十四年丁丑二月三日こゝに終る、寿八十歳。光悦寺はそのあとなり。(追記) 因に云、光悦生子なし、光瑳は養子也。その子光甫は空中斎と号し、法眼に叙す。家の三事に長ずること光悦に劣らず。茶も翫べり。子十八人あり、季子は八十歳の時まうく、天和二年壬戌七月十四日、八十七歳にして終れり。 蒿蹊云、此伝人のしらぬことゞもあり、花顚よく聞出せり。予一事も加ふるに及ばず、たゞ文章の前後を錯綜するのみ。 |