平安人物誌(天保9年版) ( 天保九年戍五月改刻 ) Page 00536 に見られる記述

分類: 和歌
源恭州 - 号 : 千秋館 - : - ( 蛸薬師冨小路東) - (俗称) 冨田右衛門


平安人物誌(嘉永5年版) ( 嘉永五年壬子正月改刻 ) Page 00682 に見られる記述

分類: 和歌
源伴雄 - 号 : 蔦之軒 - : - ( 六角御幸町西寓居) - (俗称) 長沢右衛門

平安人物誌(嘉永5年版) ( 嘉永五年壬子正月改刻 ) Page 00690 に見られる記述

分類: 和学
長沢伴雄 - 号 : 蔦之軒 - : 再出 - ( 六角御幸町西寓居) - (俗称) 長沢右衛門

平安人物誌(嘉永5年版) ( 嘉永五年壬子正月改刻 ) Page 00770 に見られる記述

分類: 良工
冨田 - 号 : 和楽亭 - : - ( 東洞院高辻北) - (俗称) 陶工忍斎


「「平安人物志」掲載諸家関連短冊」における解説

名前: 長沢伴雄
解説: * 長沢伴雄(文化5年〜安政6年) 国学者(歌人)幼名十蔵後貫一郎・初め靱の舎と号し後改めて絡石舎又は絡石軒と云い、更に柿園又は葛之軒とも号した。通称長沢衛門。紀州の人、文化五年藩士吉岡義知の二男として生れたが天保二年二十四歳の時長沢六郎政寛の養子となり紀州公徳川治宝に仕えその寵遇を蒙り公の命により天保十一年三十三歳の時京に上り六角御幸町西に住し本居大平の門に入り国学を学び、高倉家に入門して有職を学んだ。蓋しこのことは有職に関心を深めた治宝公の命によるものである。尓来京摂の間を来往し国事に奔走したが嘉永六年四十六歳の時藩政改革のことに座して諸役御免となり、安政二年揚座敷入を命ぜられ同六年揚屋中にて病没した。時に年五十二。挫夷本論。詠史歌集。絡石の落葉(伴雄歌文集)等の著がある。(嘉永五 和歌 再出 和学)

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